先日、離れて暮らす娘から、こんな連絡がきた。
「就職先、決まったよ。〇〇って会社。
営業職だから、免許が必要なんだって。
少しでいいから、援助してもらえないかな?」
「少し」に娘の遠慮を感じた。
教習所の相場は、だいたいわかっている。
ボーナスも入って、全額援助もできない金額ではない。
“少し”って、どれくらいなんだろう?
この「少し」の遠慮に、娘と私の心の距離を感じた。
彼女がまだ小さかったころ。
彼女との思い出の光景には、いつも車があった。
毎週、いろいろな場所に出かけ、たくさんの時間を一緒に過ごしてきた。
当時、妻は土日も仕事で、私と娘の二人で過ごす時間。
車は単なる移動手段ではなく、私たちの大切な居場所となっていた。
そのあと、離婚して、私は彼女のそばにいられなくなった。
「いくらくらい必要?」
「半分くらい出してもらえると助かるな」
そんなやり取りとともに送られてきたのは、教習所のURL。
税込で37万円。
今の彼女には大金だろう。
一緒に暮らしていた時に飼っていた犬はもう老犬で、心臓を患っていると聞いた。
治療費は彼女がバイト代で賄っているらしい。
将来、働き始めたら一人暮らしをしたいとも言っていた。
まだまだ幼さと危うさが残る娘が自立していくためには、一人暮らしは必要なこと。
そのための資金も貯めているとも言っていた。
来年、社会人になる娘にできる最後の援助。
次にあるとすれば結婚資金くらいだろう。
娘にとって、離れて暮らす父親に頼める金額は18万円。
その金額が高いか安いかはわからない。
でも、私が娘にしてあげたいと思う気持ちは、はるかに大きい。
「もう少し頼ってもらってもいいのに・・・」
若干の寂しさと娘の成長を感じた。
教習所代の全額と、就職準備に必要だろうと思われるスーツ代を上乗せして、その日のうちに、口座へ振り込んだ。
その後彼女から短いメッセージとともに通帳のスクリーンショットが届いた。
「ありがとう」
たったそれだけの言葉だったけど、彼女なりの申し訳なさと照れがあったのだろう。
そのメッセージをみて、どこか父親としての役目が一区切りついたようにも感じた。
妻は「また甘い顔して」と笑っていたけれど、これはただの援助じゃない。
一緒にいられなかった時間に対する、遅すぎた贈り物だ。
たぶん、これが最後の援助になるだろう。
でも、もし本当に困ったら、迷わず頼ってきてほしい。
その時こそ遠慮せずに「頼ってきてくれる関係」でいられるように。
いつまでも「頼られる父親」でいられるように。
これは、そのための投資であると思いたい。
「頼られる父親でいるための投資」なんて言い方は、少しカッコつけすぎた。
「ずっと応援してるよ」って、それだけが伝わってくれればそれでいいのかもしれない。
子どもへの投資、なんて言葉がある。
将来のために塾や習い事をさせること。
教育費をかけること。
でもこれは、違う。
これはただ、「今の彼女」に投じたかっただけ。
未来じゃない。いま目の前にある、“羽ばたこうとする一歩”に投資したんだ。
娘は近いうちに、教習所に通い始める。
アクセルを踏む足が、ちょっと震えるかもしれない。
社会にでても同じ。
周りの大人たちに揉まれて、足が進んで先に進めないことがあるかもしれない。
自分の進む方向を見失うかもしれない。
でもそれでいい。少しずつ慣れていけばいい。
いつかそのハンドルの先に、自分だけの景色を見つけてくれることを、父親として、静かに願っている。
「資産形成」って、何だろうと思う。
お金を増やすことだけが“形成”じゃない。
たとえば、誰かの人生の1ページに関われたこと。
たとえば、後悔を、少しだけ希望に変えられたこと。
そんなお金の使い方も、人生にとっての一つの“投資”なのかもしれない。
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この記事は、「ちょうどいい自由」を求めて資産形成中の普通の50代サラリーマン「Kei」が、自身の実体験をもとに執筆しています。
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